Series / 5分でひもとく、発酵のふしぎ ・ vol.04

第四章 日本酒 ― 一つのタンクで起きる二つの発酵

2026.08.31
第四章 日本酒 ― 一つのタンクで起きる二つの発酵
連載「5分でひもとく、発酵のふしぎ」について

発酵は、ただ微生物が増えるだけの現象ではありません。
微生物が生み出す酵素、その酵素が起こす反応、そして時間の経過によって、味や香り、色や食感が少しずつ変化していきます。

この特集では、味噌や醤油、納豆など身近な発酵食品を題材に、その「おいしさ」が生まれる仕組みを科学的に読み解きます。

5分の読書から、発酵の奥深い世界へ。

杯に鼻を近づけると、リンゴやバナナを思わせる華やかな香りが立ち上る。口に含めば、米からできたとは思えない透明感と、なめらかな甘みが広がる。だがこの一杯の裏では、実に奇妙なことが起きている。一つのタンクの中で、デンプンを糖に変える反応と、その糖をアルコールに変える反応が、同時に進んでいるのだ。この「並行複発酵」こそが、日本酒を世界的に稀な酒にしている。

世界的に稀な発酵様式 ― 並行複発酵

酒の発酵は、原料の糖のあり方でも分類できる。ワインは、ブドウに最初からブドウ糖があるため、酵母がそれを直接発酵する(単発酵)。ビールは、麦芽の酵素でデンプンを糖化した後で酵母を加えて発酵する(単行複発酵)。

日本酒はこのどちらとも違う。麹の酵素による糖化と、酵母によるアルコール発酵が、同じタンクの中で同時に並行して進む。これを並行複発酵と呼ぶ。二つの真核生物―麹菌 Aspergillus oryzae と酒酵母 Saccharomyces cerevisiae ―によるこの仕組みが、高効率なエタノール発酵を可能にする[1]。

なぜ同時進行が効くのか。鍵はグルコース濃度を低く保てることにある。糖化で生じたグルコースは、そばから酵母に消費されるため、タンク内の糖濃度は常に低く保たれる。高い糖濃度は酵母に浸透圧ストレスを与えるが、並行複発酵はそれを避けながら継続的に糖を供給できる。結果として、醸造酒としては異例に高い約20%のエタノールに到達する。ビールやワインを上回るこの数字は、並行複発酵の直接の帰結である。

糖化の化学 ― 麹がデンプンを切る

麹菌は、蒸米の上で主に二種類のアミラーゼを分泌する。α-アミラーゼはデンプンの内部の結合をランダムに切り(エンド型)、大きな分子をデキストリンへと液化する。続いてグルコアミラーゼが、デキストリンの非還元末端からグルコースを一つずつ切り出す(エキソ型)。この二段構えにより、デンプンは効率よく発酵性糖へと分解される。

麹菌は同時に酸性プロテアーゼも分泌し、米のタンパク質をペプチド・アミノ酸へ分解する。このアミノ酸は、酵母の栄養源となると同時に、酒のうま味や香気成分の前駆体になる。

アルコール発酵と解糖系

酵母は、受け取ったグルコースを解糖系(EMP経路)で代謝する。グルコースは段階的に分解され、ピルビン酸に至る。酒づくりのような嫌気的条件では、ピルビン酸はピルビン酸デカルボキシラーゼによってアセトアルデヒドとCO₂に分解され、さらにアルコール脱水素酵素によってエタノールへと還元される。この最後のステップは、解糖系で消費されたNAD⁺を再生する意味を持ち、発酵を回し続けるために不可欠である。発酵中に盛んに立つ泡は、このCO₂である。

三段仕込みと酒母 ― 発酵を守る知恵

並行複発酵を安定して回すために、先人は二つの知恵を磨いた。一つは酒母(しゅぼ)。あらかじめ酵母を大量に培養し、同時に乳酸菌または乳酸の添加によってpHを下げる。低いpHは雑菌の増殖を抑え、酒酵母だけを優位に保つ。もう一つは三段仕込み。蒸米・麹・水を一度に入れず、初添・仲添・留添の三回に分けて仕込む。こうすれば発酵微生物の密度と酸度を希釈しすぎず、酵母に主導権を持たせたまま仕込み量を増やせる。三段仕込みは室町時代の記録『御酒之日記』にも見える古い技法である[4]。

吟醸香の生成機構 ― エステルという小さな分子

吟醸酒のフルーティな香りを担うのは、主に二つのエステルである。

一つは酢酸イソアミル(バナナ・梨様の香り)。これは、ロイシン代謝(エーリッヒ経路)に由来するイソアミルアルコールとアセチルCoAから、アルコールアセチルトランスフェラーゼ(AATase)によって合成される。この酵素は ATF1 遺伝子によってコードされることが、酒酵母の分子解析で明らかにされている[2]。

もう一つはカプロン酸エチル(リンゴ様の香り)。こちらは、酵母の脂肪酸合成系(FAS)が生む中鎖脂肪酸カプロン酸とエタノールのエステル化で生じる。実際、酒酵母の育種研究では、脂肪酸合成酵素遺伝子 FAS2 の変異がカプロン酸エチル生産を、ATF1/LEU4 系の変異が酢酸イソアミル生産を高めることが示されている[3]。

これらのエステルは揮発性が高く、低温発酵では揮発・分解が抑えられて酒に残りやすい。また高い精米歩合で米の外層のタンパク質・脂質を削ると、雑味の少ない澄んだ酒質になり、エステル香が際立つ。吟醸酒が低温・高精白で造られるのは、この化学的な理由に基づく。

歴史と地域 ― 寒造りと水

三段仕込みや酒母の原型は中世にさかのぼる。乳酸を自然に得る生酛(きもと)・山廃の仕込みは、乳酸菌が先に増えてpHを下げ、酵母を守る仕組みである。低温を必要とする発酵の特性から、日本酒は冬に仕込む寒造りが主流となった。また仕込水の硬度(ミネラル分)は酵母の発酵力に影響し、灘・伏見などの酒造地の水質の違いが酒質の地域差を生んだ[4]。

参考文献

本文中の番号[1]〜[4]は、以下の査読論文・公的資料に対応する。

  1. Nishida H. Sake Brewing and Bacteria Inhabiting Sake Breweries. Frontiers in Microbiology. 2021;12:602380. doi:10.3389/fmicb.2021.602380(並行複発酵と関与微生物)
  2. Fujii T, Nagasawa N, Iwamatsu A, ほか. Molecular cloning, sequence analysis, and expression of the yeast alcohol acetyltransferase gene (ATF1). Applied and Environmental Microbiology. 1994;60(8):2786–2792. doi:10.1128/aem.60.8.2786-2792.1994(酢酸イソアミル合成酵素AATase)
  3. Combinatory breeding of sake yeast strains with mutations that enhance Ginjo aroma production. Bioscience, Biotechnology, and Biochemistry. 2025;89(6):910. https://academic.oup.com/bbb/article/89/6/910(FAS2・ATF1/LEU4変異と吟醸香)
  4. 農林水産省「基礎から学ぶ!日本酒のすべて」「にっぽん伝統食図鑑」等の公的解説(並行複発酵・麹・酒母・三段仕込み・歴史)。三段仕込みは室町期の『御酒之日記』に記録がある。

※注意点:エタノールはアルコールであり、飲酒には健康上のリスクが伴う。本章は発酵の化学機構を記述するものであり、過度な飲酒を推奨するものではない。何事もほどほどにすべし。酒酵母育種に関する記述(文献2・3)は香気生成の分子機構を示すもので、市販酒の全てが選育株であることを意味しない。

#5分でひもとく、発酵のふしぎ #日本酒 #麹菌
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